大企業を相手とする「エンタープライズセールス」は、営業職のなかでも最高峰の職種といわれています。1件の受注が会社の売上を大きく押し上げる一方、商談期間は長期化し、関係者も複数にわたるため、従来の営業手法では通用しません。
本記事では、株式会社マイノリティ代表の私が20年の営業経験の中で実践してきたエンタープライズセールスのノウハウを体系的に解説します。BtoB企業が大企業との取引を開始する際に直面する課題と、その解決策を具体的にお伝えします。
目次
エンタープライズセールスとは、大企業を対象とした法人営業です。ただし、何をもって「大企業」とするかは業界や商品によって異なります。
業界別の定義例
重要なのは、自社のプロダクトがどの規模の企業にとって最も価値を提供できるかを見極めることです。
近年、SaaSを提供しているスタートアップでは「THE MODEL」と呼ばれる営業プロセスの分業制が定着しました。マーケティングが大量のリードを獲得し、インサイドセールスが絞り込み、フィールドセールスがクロージングする流れです。
しかし、エンタープライズセールスではこのモデルが機能しません。理由はシンプルで、リードがほとんど取れないからです。
大企業からの問い合わせは圧倒的に少なく、展示会で2,000枚の名刺を獲得しても、そのうちエンタープライズ企業は2割弱。さらに対象部署に絞ると1割を切ります。
THE MODELが「絞り込み」のプロセスだとすれば、エンタープライズセールスは「広げていく」プロセスです。1人とつながり、そこから関係者を広げて成約につなげるマグロの一本釣りのような世界なのです。
大企業は日本全体の企業数のなかでもごく一部です。見込み客からの問い合わせはほとんどないと考えるべきでしょう。
意思決定者になかなか会えないため、商談が長期化します。一般社員から始まり、主任、課長、部長と段階的に関係者を増やしていく必要があります。
大企業では意思決定プロセスが複雑で、関係者も多岐にわたります。商談や会食を含めて何度も打ち合わせをしながら、半年から1年かけて攻略していくのが実情です。
例えば3月決算の大企業は、来期の予算を12月-1月にかけて決定します。そのため今期に新規ツールを導入してもらうには、すでに予算が確保されている必要があります。
つまり、今年提案しても来期の予算に組み込んでもらうことを目指すのが現実的です。ただし、上期と下期で予算を組み直す企業もあるため、タイミングを見極めることが重要になります。
大企業はすでに独自のシステムを運用していることが多く、「同じことができるようにしてほしい」という個別カスタマイズの要望が必ず出てきます。
スタートアップがプロダクトをローンチして、最初からエンタープライズを狙えないのは、いきなり大企業の要望に耐えうる高機能なものをつくれないからです。
商談が最終段階まで進んでも、セキュリティチェックで引っかかり、導入できないケースもあります。特にセキュリティ基準は大企業にとって譲れない要件です。
仕様確認、トライアル実施、契約直前まで進んだ段階で、情報システム部門の最終チェックに通らないという事態も起こり得ます。
エンタープライズセールスでは、1人の営業が担当する企業数を10社程度に絞り込みます。(既に取引がある企業を担当する場合)
自社のソリューションがその業界に刺さりやすいか、わずかでも勝ち筋が見いだせる可能性がある会社をピックアップします。
アカウントプランとは、ターゲット企業のヒト、モノ、その他の情報すべてを記した営業計画書であり、営業にとっての地図のようなものです。
アカウントプランに含まれる情報
最初は外部に出ている情報から作成し、商談を重ねるたびに更新していきます。電話での会話や軽い打ち合わせで得た情報も、すべてアカウントプランに反映させます。
効率的に最新情報を集めるため、Googleアラートを活用しましょう。会社名をGoogleアラートに登録しておくと、その会社に関するニュースや記事が出たらすぐに通知が届きます。
また、キーマンと呼ばれる人たちのSNSをフォローすることも有効です。ただし、大企業の方はコンプライアンスが厳しく、実名でXをやっていることはほぼありません。FacebookやLinkedinであれば可能性はありますが、面識がないとFacebookで繋がることは困難です。
エンタープライズセールスの成否を握るのがチャンピオンの存在です。
現場のエースで業務を推進する人が多く、肩書では課長や部長、年齢では30代〜40代が中心です。この方が出世するとエコノミックバイヤーになるため、非常に大事な存在といえます。
エコノミックバイヤーは、決裁権や拒否権を持っている人です。役員クラスが該当し、このレベルの方と直接商談をすること自体がかなり稀です。
チャンピオンを味方につけて、エコノミックバイヤーを説得してもらうのが基本戦略になります。
コーチも重要な役割を果たします。
コーチは自社にとって好意的な人ですが、推進力がなかったり、エコノミックバイヤーへの影響力はありません。役職もそれほど高くありません。
その反面、実務担当者であるケースが多く、社内の状況をよく知っています。積極的に推進することはできませんが、さまざまな情報を引き出せることが多い味方です。
チャンピオン候補を特定したら、最初のきっかけをつくりにいきます。王道は手紙やDMです。
効果的な手紙の要素
参考までに、私がいつも使っている封筒と便箋は以下です。
・長3封筒 クラフトホワイト
・ミドリ 便箋 きれいな手紙が書ける便箋 お礼状用
手紙の内容では、Why You Why Now(なぜあなたに、なぜ今連絡したのか)を端的に伝えることがセオリーです。
同業他社の実績もさりげなく伝えると興味を持ってもらいやすいですが、競合の名前を明確に書かないことが重要です。B社、M社、A社とぼかして書きましょう。
その業界に通じている人ならわかりますし、会社名をバーンと出すと「これ、自分もやられるのかな」と不信感が生まれてしまいます。
手紙と一緒にチラシを入れ、さらにFAX返信用紙とQRコードと名刺を同封して、3つのどれかから問い合わせがもらえるようにします。
実は相手から連絡が来るのはQRコード経由のケースが一番多いのです。年配の方が部下に「これちょっと興味あるから一回話聞いといて」と伝えて、フォームに飛んで申し込みしてくれているのでしょう。
手紙を送るだけだと反響率は0.5%程度です。しかし、手紙のあとに電話をすることで高いときは10%まで上げられるので絶対に電話はするべきです。
手紙が届いて2、3日たった頃を見計らって電話をするのがベストタイミングです。手紙を出したら、インサイドセールスにフォロー電話をしてもらうのも良い連携といえます。
エンタープライズ企業と商談を進める上では、危険な存在のニセチャンピオンに気を付けましょう。
ニセチャンピオンの見分け方
グループ会社や子会社に出向している50代くらいの方に多い傾向があります。子会社では部長などの役職があるため、余計チャンピオンに見えやすいのです。
本当はただのお飾りなのに、本人としてはプライドもあって、ついついチャンピオンの動きをしてしまいます。
ゴールデンウィーク前に「ここはもう決められます」と言われ、数ヶ月かけて商談していたケースがありました。契約書のクラウドサインと特別条件も用意して持っていったところ、「現場に反対されちゃって一旦白紙になった」という典型的なパターンです。
本当のチャンピオンの特徴
ニセチャンピオンを見抜くための秘訣は、多くのチャンピオンと触れ合っておくことです。
法人営業は一般的に「経済的合理性があれば決まる」と言われます。実際にそういうケースもあります。
中小企業だと経営者と商談をすることがあり、会社にとってのメリットは経営者にとってもメリットです。そこは確実にイコールなので、目の前の人を説得すれば契約が取れます。
しかし、特にエンタープライズセールスに関してはそうではありません。
大企業だといろんな人が出てくるので、会社にとってのメリットだけでなく、その人たち自身のメリットを考えなければいけません。
会社にとっては経済的にも絶対に理にかなっているのに、目の前の商談相手にとっては仕事が増えるだけで、直接的なメリットがないというケースもけっこうあります。
個人にとってのメリットを、法人営業の世界ではパーソナルウィンと言います。この言葉はよく出てきます。
「わかった。この会社にとっては費用対効果が明確に良くなるし、会社としてのメリットは大きい。じゃあ、担当者のパーソナルウィンはなんなんだ?」
こんな会話はエンタープライズセールスあるあるです。営業が上司から必ず聞かれる質問といえるでしょう。
代表的なパーソナルウィン
そこらへんの個人的な欲求をちゃんと把握して、さりげなく立ててあげます。
これはあまりストレートに言うと相手が嫌がるので、あくまでさりげなくが鉄則です。「他社だとこういうこと(担当者の出世)が起きました」とさらっと言っておく。そういう演出までするのが望ましいでしょう。
エンタープライズセールスの人は髪型、着ている服、靴など、かなりのこだわりを持っています。
最近だと多様性という言葉も騒がれていますが、エンタープライズセールスで売れている人に金髪はいません。少なくとも私は見たことがありません。
相手にネガティブな感情を持たれたら終わりなので、100人会ったら1人でも2人でも嫌に思うであろう可能性があればトコトン排除していきます。
大企業の50代以上の方々は、少なからず金髪の営業が来たら不快に思うのではないでしょうか。
マイナスになりそうなことは一切やりません。不測の事態は排除するように、身だしなみはとにかく無難にします。限られた見込み客を確実に落とさないといけないので、変に冒険する意味なんてありません。
キーエンスの例
ちなみに、エンタープライズセールスが目標達成したら、福利厚生で高級スーツをプレゼントする会社もあります。彼らの場合、ちゃんと体に合った、1着数十万円するオーダーメイドのスーツを着ているのです。
エンタープライズセールスのプロセスは決まっています。
攻略の5ステップ
このループを繰り返します。これを担当するアカウントに繰り返していくのです。
一発目でチャンピオンにたどり着けることもあれば、何回も訪問して意思決定者がわかっていくこともあるので、商談や会食も含めて何度もループしながら、攻略していきます。
これはもうロールプレイングゲームです。そこに楽しみを見いだせると非常におもしろい仕事だと思います。
新年度になると組織編成がガラッと変わることもあるので、やっぱり半年とか1年間である程度結果は出してつなげていきたいところです。人事異動で組織が再編されたらまた1から振り出しに戻ってしまいます。
しかし逆にいえば、チャンピオンを把握して商談して全然うまくいかなかったとしても、期が変わると別のチャンピオンが出てきて、再びチャンスが得られることもあります。
チャンピオンやエコノミックバイヤーの方はいずれにしても出世頭なので、違う事業部に移ったとしたら、そちらの事業部でもお客さんになり得る可能性があるわけです。
だから売って終わりではなくて、そこからどんどんアップセル・クロスセルも考えたいですよね。一度接点を持てたチャンピオンは売った後も付き合いをつなげていって、他部署に行っても話ができるようにしておくのが大事です。
筆者がキーエンスの子会社にいたとき、とある大企業と取引を開始してもらったことがありました。いろんな部署で実績を作ってからその会社の本丸の事業部にたどり着くまでに3年かかりました。
そのときの相手企業のチャンピオンの方は当時50代でしたが、その方が退職されるまでずーっと付き合いが続きました。
過去に出会ったチャンピオンの方々はすごく偉い立場になっています。やっぱり彼らは転職しても転職先でチャンピオン的なポジションになります。
直接のクライアントではなくなったとしても、チャンピオンとの関係維持はエンタープライズセールスにとっては重要な仕事です。
エンタープライズセールスが1年かけて1件受注したとします。すると、そのたった1件の受注額が、例えばSMBチーム40〜50人の1年間の売り上げを超えることもあります。
1件の受注で会社の売上が跳ね上がり、会社のブランディングにも大きく寄与します。
大企業が自社製品を導入したことについてプレスリリースを出したり、事例として取り上げたりすることで、製品を知る人も増えて、その魅力も増すという副次的な効果もあります。
BtoB企業のホームページを見ると、大手企業のロゴがたくさん出てきますよね。あの企業のロゴが今後の営業活動にすごく効いてくるのです。
売上だけでなく、会社と製品に信頼や安心をもたらすことができる。エンタープライズセールスは営業冥利に尽きる、魅力ある職種なのです。
エンタープライズセールスは、従来の営業手法とはまったく異なるアプローチが求められる、高度な営業スキルです。
エンタープライズセールスでは、行動量ではなく、アカウントプランがどれだけ更新されたかで働きを評価されます。週単位でアカウントプランの更新状況を見て、解像度がどれだけ上がったかが重要です。
エンタープライズセールスは、針の穴に糸を通すような、すごく繊細な仕事です。従来の大量のリードに片っ端からアプローチしていくのとは違います。
ロールプレイングゲームのように、いろんな人に会って、話を聞いて、別の人を紹介してもらい、また話をする。この繰り返しです。そこに楽しみを見いだせると非常におもしろい仕事だと思います。
難易度は高いですが、それでも得られる果実が大きいのがエンタープライズセールスです。みなさんが次のステージに進むために、ぜひこの記事で紹介したノウハウを活用してみてください。
この記事を書いたひと
株式会社マイノリティ 代表取締役
柳澤 大介
新規事業のマネタイズやグロースが専門。埼玉大学で「イノベーションとマーケティング講座」の講師を務める。監修した「法人営業の教科書」はUdemyの販売実績2,800万円のベストセラー。